オーディオ岡目八目
オーディオといえば、かつては若者から年配者まで、またしがない勤め人からお金持ちの趣味人まで、幅広い層が参加する奥の深い趣味の世界をつくっていました。私自身はといえば所帯をを持った頃から仕事に追われて趣味どころではなくなり、いつも外から覗き込むだけの状態を続けていました。あるとき気がついてみたら、世間ではいつの間にかオーディオがマイナーな趣味の地位に転落してしまっていたのです。まことに寂しく残念な気持ちでいっぱいです。松風の音を収録して再現することに懸命な努力をしている人のことなど、マニアックな昔話を探したら際限がないでしょう。どこにそんなに人々を夢中にさせた秘密があったのでしょうか。
太平洋戦争中には情報統制が厳しく行われ、敵性音楽の禁止、海外放送の受信の禁止、小説や映画や音楽の検閲などで人々は自由を束縛されていました。第二次世界大戦が終わり演劇や音楽の検閲がなくなり、(GHQの検閲はありましたが、)、更には映画やラジオといった当時のメディアが大衆に解放されました。小生などの年代にはよく言う「ラジオ少年」が沢山現れて、海外の放送を受信したりアマチュア無線に凝ったりラジオやアンプを製作したりするのが流行しました。電蓄(電気蓄音機)のアンプの出力段は2A3のシングルが音が良いとされていました。スピーカーのフィールドは電磁石でした。
東京通信工業(今のソニー、通称:東通工)から出た「テープコーダー」なるものを公民館から借りてきて試したりしていました。和紙に磁性体を塗ったテープで、なぜか裏返しに巻き取るようになっていました。声はまるで原音とは似ても似つかないものに変ってしまうのでした。小学校時代の音楽の先生がお金持ちで、お宅をお訪ねするとアメリカ製の45回転盤の自動プレーヤーがあって、「フィガロの結婚」を聴かせてもらったのを思い出します。上から組みレコードが順に落ちてくる仕掛けに感心したものでした。やがてNHKが中波の第1放送と第2放送の2波を使ってステレオの試験放送を始めました。家のラジオと叔父の所から借りてきたラジオを使って聴きましたが、左右が不揃いなのであまり感心しませんでした。
「ラジオ技術」や「無線と実験」といった月刊誌が人気を呼んでいました。記事は製作に関するものが主体で読者の投稿が幅を利かせていました。小生は貧乏でしたので自分の小遣いでは作れず、もっぱら学校の校内放送用や講堂のPA用の機材を作ることに専念していました。運動会でグラウンドに置いたミキシング・アンプから放送室のアンプまで600オームの非平衡伝送ラインを引いたりしました。ビクターのコブラ型ピックアップを載せた可搬式のレコードプレーヤー(いまのDJ用機材のイメージに近いもの)が活躍していました。全て78回転盤でした。テレビジョンの試験放送が始まったのもこの頃でした。
やがてLPレコードが出回り始めましたがまだモノーラルの時代で、ステレオは各種の方式が競合していて普及には程遠い状態でした。オーディオがハイファイと呼ばれていたその時代には、お金がなかったことも手伝って、全て手作りするのが若者の常識でした。キットなども色々出ていて、赤井のテープ・デッキのキットなども有名でした。小生などはホーン型のツイーターまで手製でした。アルミ線が手にはいらず銅線だったので効率が上がらず苦労しました。それでもヴェートーヴェンの8番の10インチLPを買ってきて音を出したときなどは大変感激したものです。
(蛇足ですが、LPレコードが出現した条件の一つにテープ録音の技術がありました。テープ録音は第二次世界大戦中にドイツで完成し、ヒトラーの演説が各地から流されて連合国側が振り回されたと聞いています。それまでは放送用の録音は円板録音機によって行われていました。昭和天皇の終戦の詔勅も円板録音でした。スクラッチ・ノイズがあるので生放送との識別は容易でした。)
しばらくしてステレオLPの時代がやってきました。テープデッキは全てオープンリールでした。この頃からオーディオ装置が家庭にはいりはじめました。手作りが全盛時代を迎える一方で、時あたかも高度経済成長時代にはいり、高級なオーディオシステムがもてはやされ、「オーディオ評論家」なる先生方が現れました。「音楽の友」誌にも新譜の記事にオーディオ評論家の先生方の名前が載るようになりました。巷ではパワーと周波数特性ばかりが喧伝され、後にウサギ小屋と揶揄されることになる狭小住宅のリスニング・スペースを、およそ似つかわしくない化け物が占領している光景がよく見られるようになりました。音楽とオーディオが主客転倒しはじめて、摘み食いのような聴き方が広まっていきました。
一方では、生の音楽を聴ける機会の増加に伴いオーディオ・マニア以外の音楽愛好家も着実に増えていき、職場や学校を中心にして演奏活動に参加する人が増えました。また次第に良い演奏会場が東京を皮切りに各地に作られるようなりました。外国から有名な演奏家や演奏団体が頻繁に日本に訪れるようになりました。演奏家の生活もようやく安定し始めたかに見えました。
この頃から音楽とオーディオは目的と手段の関係を離れて、それぞれがわが道を行きはじめたのではないかと思います。20世紀にはいってから演奏家にとってレコードを出すことは演奏活動の重要な要素でした。このことは今日でも変りません。PCM録音やDSD録音など新しい方式が出るたびに少しでも生に近い音を求める演奏家の関心を集めます。但し、ベテランの人間の耳で初めて聴き分けられるような差しか無くなって来たため、録音方式への関心は昔ほど強くなくなりました。これは再生装置にも当てはまります。今日、iPodで勉強している音楽家が如何に多いことか。
(またまた蛇足になりますが、ディジタル録音が現れるための基礎になったのが、畑違いな映像の記録技術の発達でした。広帯域の信号を記録できるようになったのでディジタル録音が可能になったと言ってもいいでしょう。テレビの番組がテープで放送されるようになったのはそんなに昔のことではなく、それまではフィルムに頼っていたんですね。)
今日では聴衆の方も、なにも何百万円も出して立派なオーディオ装置を揃えなくても、一流の演奏を聴ける機会が随所に溢れています。と言うことは、昔の名演奏に関心のある人や一部の好事家にしか、必ずしも必要でなくなったのが高級なオーディオ装置なのだと思います。尤も演奏会ではめったに聴けない曲目や来日しない演奏家もCDなら聴けるわけですから、いいオーディオ装置の価値は今でも充分存在することは言うまでもありません。
そんな状態のところにバブルの崩壊と言う稀有な大波が押し寄せたのですから堪りません。オーディオ産業は一挙に衰退してしまいました。いま彼らの多くが食いつないでいるのは主にいわゆるAV(オーディオ・ヴィジュアル・・・お間違いなきよう。)の世界とカー・オーディオです。でも考えてみれば、オーディオの愛好と言うのは数ある趣味の一つに過ぎないわけで、それがひと頃ある一つの産業分野を潤していたこと自体、いかにも珍しい現象だったと言えるでしょう。そういう目で眺めてみると、廃れたのはあまたあった総合オーディオメーカーであって、いまでもオーディオ・マニア自体や得意分野に特化したメーカーは健在のようです。つまり流行り病のオーディオではなく、本当の趣味の世界がようやく訪れたのかも知れません。
ここまで書いてみたところで、つらつら読み返してみると、いかにも表面的な議論しかしていない感じがしてきました。他の趣味でもそうでしょうが、オーディオの楽しみは本人にしか分からないもので、どうやら分析したり解説したりは愚の骨頂だというのが結論のようですね。今回はオーディオ万歳と言うことにしておきましょう。
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