マーラーの復活

U-Tubeで母校の定期演奏会を聴きました。マーラーの復活です。飯森範親氏の指揮です。演奏が終わってほぼすべてのパートを立たせて拍手を受けていました。なかなか立派な「復活」でした。この記事に埋め込ませていただきます。

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アメリカのサービス業の生産性

我が国のサービス業の生産性がアメリカの半分だという記事を読みましたが、必ずしも納得し難いので体験談を書かせてもらいます。

日本の銀行では、窓口に担当者(多くは若い女性)が座り、応対に専念しています。これに対して、アメリカの銀行では窓口に固定の接客担当者はいないのが普通です。この点では明らかに日本の銀行は窓口業務の生産性が低いようにみえます。

話が飛びますが、昔、アメリカのデパートで売り場の担当者(多くはパートタイマーのご婦人)の仕事に間違いが多くて、しばしば実害を被った経験があり不信感をもっています。同僚が紳士靴を買って帰って、ホテルで開けてみたら右足だけ2個入っていたことがあり、大笑いしました。まず日本では考えにくい出来事でしょう。

生産性と品質とは往々にして相反することがあるようです。昔のアメリカ車でドアの内張をはずすと、たばこの吸い殻が出てくるという話がありました。わずかな体験だけで一般論を云々するの遠慮しますが、一言つぶやきたくなりました。

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体験的歴史認識について

Twitterでリツイートした毎日新聞の記事に触発されて、久しぶりにブログに投稿する気になりました。旧ホームページ「緑の木陰」からの引用です。

体験的歴史認識について

私は1934年生まれです。生まれは横浜市ですが、4歳で父の転勤にともなって豊中市に移りました。それから1964年の自分自身の東京転勤までずっとあのあたりに住んでいました。近くには伊丹の陸軍の飛行場がありました。いまの大阪空港です。豊中に引っ越す日には横浜市内は防空演習のために灯火管制が布かれていて真っ暗闇だったのを覚えています。1938年か1939年の事でしょう。

横浜では近所の子供たちと戦争ごっこなどで遊んでいました。豊中に移ってからはご近所の方の影響で日曜学校に通いました。幼稚園もミッション系でした。私の入学したときから小学校が国民学校となり卒業まで国民学校のままでした。幼稚園や日曜学校では讃美歌や聖書に親しみました。クリスマスの指人形劇や聖歌隊の巡回、イースターの卵探しなどを思い出します。

私が国民学校1年生の12月にアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。この戦争は5年生の8月まで4年近く続きました。飛行機の音による機種の判別等の能力を養うためという触れ込みで、音楽の授業は音感教育一辺倒になり音程や和音の聞き分けばかりやりました。4年生の頃に掛かりつけの小児科医のご子息が軍医中尉として出征されるのを日曜学校のみんなでお見送りしました。軍刀を持たせてもらいましたが大変重いものでした。そのご子息はアッツ島で投降した直後におびえたアメリカ兵に自動小銃で撃たれ戦死されました。所持品の聖書と日の丸に書いた寄せ書きが戦後大分たってアメリカからご両親に返還されました。

アメリカによる日本本土空襲はしばしば物量にものをいわせた都市の無差別絨毯爆撃や私たち子供を含む市民を狙った機銃掃射など極めて非人道的なものでした。当時幼稚園児だった私の妹はアメリカの空襲で昨日まで手をつないで遊んでいた友達を亡くしました。5年生になって暫くすると級友の間で特殊な爆弾の噂が広まりました。マッチ箱ぐらいの大きさでで小さな島が吹っ飛ぶ位の爆発力がある爆弾ができたというものでした。アメリカが広島市を原子爆弾で攻撃し二十数万人の市民を殺害したのはそれから間もなくのことでした。

結論:国と国との戦争に正義の戦いは有り得ない。

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